きょう2023年12月19日の東京新聞夕刊

「オススメ!今年の一冊」で

豊崎由美さんが嬉しいことを言っていたので、長くなるけど引用します。

 

「まず今年の1冊として、市川作品と共に候補に挙がったものの、惜しくも受賞ならなかった乗代雄介『それは誠』を挙げます。高校2年の主人公が東京への修学旅行の際、ある事情から班を抜け出しておじさんに会いに行こうとする。その計画に友人たちが協力するという話。彼らの心が通い合う様子を淡々と描いているだけなのに、感情が揺すぶられます。これほどよくできた小説を「作為的」と言って落とす理由が謎。」

 

文学の素人のぼくが感じていたことを「業界きっての読み巧者」も同じように感じていた。そのことが嬉しかった。

それで、以前、事情があってクローズした前のブログに書いたぼくの感想文を、復活させます。

 

           ☆彡

 

海の日の午後、寝転びながら、乗代雄介『それは誠』を読んだ。読み終わった夕刻、ちょっと涙ぐんだ。この小説を読んで、これは他ならぬ自分のために書かれたのだ! などとカンチガイする奴が、おそらく1,000人のうち3人ぐらいはいるだろう。その3人のうちの一人が、オレです。

 

どうして俺がそんなカンチガイしたのか、理由は単純、次の三つ。

 

① 日野には行ったことがないけど、高校の同じクラスのタケちゃんが日野の団地に住んでいる。

TSUNAMI  大震災後封印されていたが、菅原洋一がピアノの伴奏だけで歌ったのを聴いて、心打たれていた。いつかピアノの楽譜を入手して弾き語りできたらいいなと思っていた。

③ これが一番の理由だが、父の本家の1歳上のいとこも、母の実家の6歳上のおじも、そして、俺も、吃音だったということ。

 

俺の吃音は十代二十代のころは真っ最中でこれがなかったら青春はバラ色だったのにと恨み悩み、なんとか矯正しようと毎朝発声練習なんかして無駄にあがいていたが、その後、酒飲んだりヤンキーしたりテキトーな人生を送っているうちにだんだん薄れていった。今、じつは僕どもりです、と言っても誰も信じてくれない。しかし、吃音によって思春期に形成されたなにかは、おそらく深く深く刻み込まれていて、今になっても自分という生き物の不可欠な要素となっているように思う。

 

だから、この小説の最後にぐっときたのだ。(きょうはここまで)

 

               ☆彡

 

7月24日東京新聞夕刊によると、169回芥川賞の選考説明で、次点の作品について「全てが作者の脳内で作られているようなまとまりの良さ」という言葉が使われていた。はじめて見る表現だったので、心に残った。

 

で、その後、これを思い出しては考えていますが、「全てが作者の脳内で作られているよう」ではなく「書く」って、いったいどういう行為だろうか。

 

脳外の出来事であったとしても、そもそもそれを書くという行為自体は、脳内でなされるものではないか。

 

あるいは、脳外の出来事によって、脳が影響を受けて、その出来事との遭遇以前に比べて、脳内の作業に質的な変化が生じた、その経過がわかるように書く、ということだろうか。

 

あるいは、自分の脳内に存在しないもの、例えば、他人の言葉や脳外的出来事の影響を圧倒的に受けて書く、そのプロセスにおける痛み・快感・戸惑い・不安などの感情がしみじみとあるいはそこはかとなく伝わってくるように書く、ということだろうか。

 

あるいは、自分の脳は程度が低いんです、ということを時々正直に漏らしながら、だからなかなかまとまり良く書けないんですよ、という可愛げのあるニュアンスが伝わるように書く、ということだろうか。

 

選考過程を説明した人が、ここのところ、何か具体例をひとつ出してくれれば親切だったと思う。例えば、芥川龍之介の「〇〇〇」の小説は「全てが作者の脳内で作られているようなまとまりの良さ」には欠けるけれども、しかし傑作です、とか。

 

             ☆彡